量子的な愛

愛するという違和感

花で象られたハートマークの画像

私事の経験で恐縮ですが、実は今までお付き合いしたことのある相手に「愛してる」と、言うのも言われるのも苦手でした。

なにか強烈な違和感、馴染めない感覚をその言葉に感じていたのです。

 

でも「好き」は言うのも言われるのもまったく抵抗がありません。でも、「愛してる」と言われたり、「私のこと愛してる?」と訊ねられると途端に困惑しました。

 

愛について未成熟でよく解っていないのかな…とも悩みました。

 

 

世間ではドラマでも、週刊誌でも、映画でも、ネットでも、本でも、日常会話でも、下世話な話題から高尚な哲学のような論調まで、とにかく愛というテーマについて溢れかえっており、他の人は愛をどう捉え、どう感じてその言葉を使いこなしているのか…ちょっと羨ましくも不思議な感覚で眺めていました。

 

これは何故なのだろうとずっと考えたのですが、量子論と性エネルギーが繋がったところから自分なりの答えが解りました。

 

 

今回のコラムでは、「色々な考え方があっていいんです」ということを前提に、愛について、愛することについて、量子的な観点から読み取れることをお伝えさせて頂きます。

多様で複雑過ぎる「愛してる」

夕暮れの木立に佇むカップルの画像

さて、「愛してる」という言葉への違和感は、そもそも「愛してる」という気持ちは単独のものではない、というところから齎されていました。

 

「愛してる」と言う時、その言葉には、

 

 ・「大好き〜」
 ・「いつもそばに居て欲しい」
 ・「くっついてるととても気持ちいい」
 ・「繋がってると安心するな」
 ・「他の人とも仲良しだと妬ける…」
 ・「悦ばせてあげたいな」
 ・「嫌いにならないで欲しいな」
 ・「お誕生日になにか買ってくれないかな」
 ・「私のこと褒めてよ〜認めてよ〜」
 ・「いつも、いつまでも元気でいてね」
 ・「逢えなくても私のこと忘れないでね」
 ・「私のことをよく理解してほしいな」
 ・「ずっとずっと一緒にいようね」

 ・「あなたが死ぬなら私も死ぬ」等々・・・

 

こんな複数の想いが込められていないでしょうか? そして中には実際に伝えるかは置いておいて「傷つくことは言って欲しくないな」でも「本心をちゃんと伝えて欲しいな」ですとか、「あなたの全てを知りたいな」でも「できれば嫌いな部分がないといいな」等々、支離滅裂な真逆の想い、矛盾した感情が混ざっていないでしょうか?

どうもこんなことを無意識に感じていたために、「愛してる」と言われても、「あなたの愛してるは、さあ次の内どれ?」と確認しないと、何を言われたのかちゃんと受け取れなかったわけです。

 

一方で「好き」ならすぐに解るんです。「好き」って気持ちは、このモフモフしたり、キュンキュンとくる感覚のことだよな〜、と心当たりがありますから。それと同じで好きの反対「嫌い」も良く解ります。

 

でも「愛してる」はそのままでは解らない!「愛してる」って言葉に込められた様々な想いは、人によって異なるでしょうし、時と場合でも変化してるのではないでしょうか? さらには矛盾した想いだったりするのに、それを一色単に「愛してる」と表現するのは、とても便利であると同時にいささか乱暴で、あらゆる誤解の元にもなりかねない行為だと感じていたのでした。

 

そう、言葉に込められた想いが、多様で複雑過ぎるのです。

 

しかし結局は、その多様で複雑な想いすべてが「愛してる」で間違いなかったという結論に到るのですが…。

愛は「する」以前に「ある」もの

フラクタルな陰陽図

コラム「性エネルギーと音」で説明しましたが、宇宙のはじまりである真空中の無は、絶えず揺らいでいて量子が誕生しては消えることを繰り返しています。

 

 

なにも無い真空が何故だか揺らいでおり、そこから量子が誕生するという最大の謎には、「そこに意識があるから」という一見非科学的な説明が、最もこの世界を破綻することなく描写します。

 

「わたしは何が出来るか知りたい(+ 男性性 点)、そのために在り続けたい(− 女性性 球)」という意識が、この宇宙開闢以前より、そしてこの宇宙終焉以降でも、永遠に存在し続けているのです。

 

 

宇宙は最初に誕生した量子の、 知る と 在る という真逆のベクトルを持ちながらも、自らが存在し続けるために相手を必要とし、まるで愛し合うかのように永遠の追いかけっこをしています。この追いかけっこが回転となり、その回転が更なる回転を生み出し、無より無限の量子を取り出します。それは、この宇宙にあるものすべてを創造することで、 知る と 在る という自らの意識を体験し続けています。

 

 

「愛は万物に宿る、愛はすべてを創造する」というなら

この量子を生み出す

男性性エネルギーと女性性エネルギーが愛の源であり

そのふたつが惹かれ合い融合した量子は愛そのものではないでしょうか?

 

 

ここで、ふとこの量子の立場になって世界を俯瞰してみると、驚くべき実態が明らかになります。
 

量子にとって愛ではない存在というものは、なんとこの宇宙にはありません! すべてが自らの愛の表現として存在し続けているのです!!

それは、私たちが醜いと感じる存在であれ、許し難い存在であれ、無価値な存在であれ、そうしたジャッジを超越した部分で、純然たる愛として量子自らが存在させています。

 

ということは、そもそも愛は、人が愛「する」以前に量子的な愛として「ある」ものでは? と感じないでしょうか? 私自身はこのことに氣がついた瞬間、「あぁ〜なるほど…」と「愛してる」に感じていた違和感の奥にある正体を完全に掴んでしまったのです。

それまでは、なにか特別な意味や想いがなければ、愛してるって言葉は嘘になると考えてましたし、その疑いがあるからこそ、あなたの愛してるは具体的にどんな想いなのか、確認しないと受け取れないし言えない、と感じていたのです。だからと言って、ではその特別な意味や想いの、特別さってなんだろう? と考えても、なかなかその核心は掴めずに居ました。

ですがそもそも、
愛は「する」より先に「ある」ものなのだと、深い感動とともに腑に落ちていきました。

 

私たちが存在しているという事実が、「すでにここは愛が溢れかえっており、その愛は私たちを創造し続けている」このことを極めてシンプルに証明していたのです。

量子的な愛は無条件

ウラムの螺旋に描かれた四方ハートのイラスト

さて量子的な「ある」愛に対し、私たち人間が「する」愛は、どこか窮屈で条件的なものです。

それはきっと、生きていく上で意識的にも無意識的にも身につけて来た、良い・悪い、正しい・正しくない、というジャッジにより、存在として肯定されるものと、否定されるものを自ら創り出してきたからではないでしょうか?

 


愛すべきものも、愛すべきではないものも、量子の愛には存在しません。量子は、いわゆるスピリチュアルな表現で「無条件の愛」と呼ばれる存在そのものです。

 

 

この無条件の愛を、「私のすべてを差し出します」とか「なにも見返りを求めず与えます」、という意味で捉えられている方もいらっしゃいますが、無から無限に取り出されすべてを創造していく量子を慮ると、愛とは本来差し出すものでも与えるものでもないと感じます。

 

それは、挺身や犠牲という愛の表現ではあると思いますが、見返りを求めないという条件がついている以上、無条件の愛ではないと感じます。

 

無条件に愛する、ということは、

 

あなたは愛そのものだから在り続けていいよ

そして何が出来るか知り続けていいよ

 

と、既にいまここにある量子的な愛の意識に、自分の意識を同調させる態度であると感じています。

 

無条件の愛とは、愛することに条件を付けないということですが、それはすべてがすでに愛の表現だということを、ただ認めるということでしょう。これは、誰かが「する」愛ではありません。元もと愛はそのように「ある」ことにただ氣が付く、ということです。

 

無条件の愛は、人間的に愛することも条件としていないのです。

 

あなたがしてもしなくても、それはあります。あなたが存在していることが、その証しです。あなたの存在がすでに量子的な愛=無条件の愛、そのものです。

 

ですから、愛であるあなたに湧き起こるすべての感情も愛です。

 

愛してるって言葉で言い合うより、喜怒哀楽の様々な感情をやりとりしてる方が、余程愛しあってる真っ最中でしょう。それは例え殺意であってもそうです。「殺してしまいたい」…このように強烈な感情はまさに愛の回転力を増します。

 

逆に、無関心で淡々とあることは、愛の回転力をどんどん減らします。無関心とは知ろうとしない態度であり、愛は知りたいベクトルを持つエネルギーです。ですがここで無関心をジャッジする必要もないのです。

 

これも無関心で在る、という愛であるわけですから。私たちがそれは愛じゃないとジャッジしない限り、すべては愛の表現という本質として存在しています。ただ、無関心は自身の愛のエネルギーを損失していくことにはなるでしょう。そして、無関心の裏側には、実は自分自身に関心を持って欲しいという本心があり、「愛して欲しいのに…」という氣持ちの裏返しかもしれません。


さて、話しを冒頭の男女愛に戻すと、
男女間における「愛してる」に相応しい、特別な意味・想いがあるとすれば、「わたしが存在し続けるために、あなたはどうしても必要不可欠なんです…」ということになるでしょう。

循環する自己愛

それでは最後に、量子と自分自身とを同一視した世界を覗いてみましょう。

 

 

まず、あなた自身が存在しているのは、自らの無条件の愛によって自らを創造しているからです。

 

量子の集合体であるあなたにとって愛するとは、自らの生命を維持し、様々な思考により体験を生じさせ、その体験により感情を感じることです。

つまり、

自分のハートが世界を創り出す概念図

 

泣くのも

美味しいのも

寂しいのも

怒るのも

嬉しいのも

落ち込むのも

甘えるのも

悔しいのも

楽しいのも… 全部、愛の表現「愛してる」です。

 

ですから、こんなこと感じるのは良くないとか、こんな感情抱いてるなんてみっともない、などとご自身をジャッジして感情を押し込めたり、理屈で言いくるめて平静を装う必要はないのです。

 

感じたままに、感情を表現することこそ純然たる愛の現れなのです。

 

例えそれが支離滅裂であっても、なんか矛盾した感情であっても、自分が感じていること全てが愛です。寧ろ、どちらか片方の感情しかないということの方が不自然かもしれません。嬉しいと同時に不安にもなる。怒ると同時に哀しくなる。そんな複雑さこそ、人間味だと思うのです。

 

そして、こうした表現が自由に許されていることがすでに、自分に愛されている、つまり自己愛により生きている、ということがお解りになるでしょうか? 逆に、自分自身にそれを許さない態度は、自分を生きにくくしているとは感じないでしょうか?

大人げない、空気読めない、非常識だ、感情的でみっともない、自己中心的なのは良くない…等々、一体どれほどのジャッジで、愛の表現を封じて来たのか、それにより自分らしく生きることを諦めて来たのか計り知れません。

 

とはいえ、ここは実感が難しく、葛藤や反論が諸々あるところと思います。ですので冒頭で「いろいろな考え方があっていいんです」とお伝えさせて頂きました。

より詳しく聞きたいという方には、セミナー等でお伝えさせて頂きたいと思います。

 

 

 

さて、私たちの日常の様々な「愛してる」の表現は、量子エネルギーの循環そのものです。

 

瞬間瞬間の感情の変化が、無から量子を生じさせ、物質に変換し、時空間を構成し、そしてあらゆる体験をまた生み出し宇宙を循環していきます。よく「オーラがある!!」とか「凄い存在感!!」と評される方は、循環させている量子の量が人より格段に多いのでしょう。ですからそのような方は、夢や目標を現実化する能力に長けているのです。

ですが、このことは一部の方に与えられた特権ではありません。どなたでもご自身を愛することで可能となる、自然な物理現象なのです。

 

 

 

愛で創られたあなたから発せられるすべては、愛です。

 

このことをどうぞ、一度よく咀嚼されてみて下さい。これが腑に落ちると、ご自身を無条件に愛することに繫がります。これを自己愛といいます。この自己愛を受け取らないでいると、自分以外の存在に愛を求め続けます。その行為が自分自身の量子エネルギーを減らし循環が滞っていくことになるのです。なぜなら他でもない、自分自身に無関心だからです。ですが、

 

『わたしは私を愛してる、だから存在している』

 

これが真実です。いまこの実感があろうとなかろうと、存在するすべての本質を表していると感じます。そして、この量子的な愛を運営しているのが、右脳と左脳の中央、松果体にある第8のバイタルゲートです。

ライトボディのイメージ図 各チャクラの配置入り